現預金等

相続人に

行政には行政の立場とやり方があり、また、産業用地整備支援事業者の決定には審査会があって、それをクリアする必要があった。各方面から選ばれた5名の審査員により行われた。審査は、学識経験者や金融機関など、審査員が、Mの提案内容はもちろん、同社の財務内容までも調べあげた結果、千葉市の審査基準を十分にクリアする評価点を獲得し、Mは千葉市産業用地整備支援事業者として決定された。この認定により、千葉市も10億円を上限に建設負担金を交付することになったわけである。
こうした行政側の熱意に応える意味からも、「地域活性化にともなって心豊かなコ小林はミュニティが誕生するように努力したい」と、いっそう表情を引き締めている。
こうしたプロジェクトと並行して、Mでは、埼玉県狭山市で約8万平方メートルの土地を、茨城県つくばみらい市で約32万平方メートルの土地を開発予定で、さらに神奈川県海プロジェクトなども海老名5老名市では約3万平方メートルの土地で開発を予定しているあり、すでにかなり先の先まで埋まっている。
Mの予定表は、今後のMのプロジェクトのなかには、用地をMが買い取り、賃貸で活用しようという、新たなビジネスモデルを模索しているものもあるという。「検討中の企業からは、『50年リース契約でどうか』という打診がきているんですよ」と、50年を超えるリースとはさすがに驚くが、小林は言う。

仮に空室が生じても不動産事業とは、それほどロングスパンで考える事業なのだ。そして、こうした契約がひとつ、またひとつと増えてくれば、小林の念願でもある「100への道も、にわかに現実味を帯びてくる。年企業」いま、確かに言えることは、この市街化調整区域開発というビジネスを手中にしたことにより、Mは、数ある不動産会社のなかでも独自の存在感を発揮する企業になったということだこの先、その存在感はどこまで大きくなっていくのか。
誰もが大きな期待を持ってMの今後に熱い視線を注いでいる

不動産価値革命の先駆者

建築設計士から不動産業への転身

上地に生命を吹き込むことを天職として天の配剤という言葉がある。

毎年の贈与日は変えたほうがいい

天は、人それぞれに、生来、人生で果たすべき役割を付与するという意味だ。長年にわたり、経営者など社会的成功を成し遂げた多くの人に出会ってきた私は、最近、しみじみとこの言葉を噛みしめることが多い。天啓とも言える独自の感度でそれまでにな成功者のほとんどは、時代の変革期に生を受け、かった発想や技術を探りあて、逆に言えば、新しい時代を果敢に切り開いてきた人たちだ。それぞれの時代において、なんらかの重要な社会的役割を担って生まれてきた人だと言えるだろう。
こうした人々、天の配剤によって、歴史は常に、つまりはそれまでとは大きく変わった新しい様相を見せ、織りなされてきたことに、あらためて気づかされる。
こばやしつよし勁も、天の配剤M創業社長の小林のひとりだと私は考えていまさにこうしたる戦後の復興から高度経済成長期を経てバブル経済へ至る過程のなかで、日本の不動産価格は土地の価格が下がることはない一貫して右肩上がりで値上がりを続け、いつしかという土地神話が生まれた。

そして、ほとんどの人は無意識のうちに、それをあたりまえのこととして受け入れていたあたりまえと思われていたことが、バブル経済の崩壊とともに、そのいっきに覆されることになったのだが、そうした変化の渦の真っただ中にありながらも、「土地は、小林は資産として所有するだけのものであってはならない。
活用し、その土地から新たな価値をつくりだしていかなければならない」市民提案型まちづくり事業補助金常に持ち続けていた。そして、という信念を、どんなに土地価格が高騰しようが、あるいは反対に、大きく下落しようが、目先の変動に翻弄されることなく「土地は活用することで新たな価値を生み出すものだ」という信念を貫いてきた。
それが小林の一貫した生き方であるこの生き方こそが、天の配剤という言葉にぴったり符合することは、不動産の価まさに格が乱高下し、先行き不透明な時代にあっても、Mが成長活力を失わず、事業を拡大発展させ続けていることが証明しているだろう。·ケーがここまで大きく成長してきた理由は、いくつもあげることができる。
たとえばエム困難を恐れず、時代を見通す目の確かさや、かつ誠実そのものの事業姿勢などだだが、Mが成功している最大の理由は、手掛ける案件、つまり、どの土地や不動産に対しても、並々ならぬ愛情を持っていることだと私は確信している。
小林は、土地への深い愛情から、どんな土地に対しても、引き出し、その潜在的な最大価値を鋭く見抜き、それを最大限に発揮させてやりたいと、真摯に思うのだ。では、小林はなぜ、そこまで土地や不動産を深く愛しているのだろうか。小林の半生をたどると、その理由がくっきりと浮かびあがってくる。1941年12月8日未明、日本はアメリカ合衆国ハワイの真珠湾に拠点をおくアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に奇襲をかけた。
宣戦布告なき開戦である小林は、この開戦の日から約1カ月後の1942年1月15日に、長野県安曇野で元気な産声をあげた。
長野県のほぼ中央に位置する、人口10万人規模の、のどかな田園産業都市である。

高齢化社会

安曇野は、部には雄大な北アルプス連峰がそびえ立ち、この北アルプスからの雪解け水が豊富な湧水とおそして、夏は暑く、冬は寒い。この、なってこの地を潤す。メリハリのある四季の気候と清この地に豊かな恵みをもたらし、りんごなどの果物や、わさびなどの冽な水は、米をはじめ、

産地としても知られている。その光景は、小林が誕生した七十有余年前から、それほど大きな変化はないようだ。
小林が生まれたころは、戦争は大陸で行われていて、日本国内で暮らす人々にはまだ実感が乏しく、ましてや長野あたりでは、まるで遠い異国の話のように聞こえていたのではないだろうか。
戦争が一般の暮らしに深刻な影を落とすようになるのは、それからIS2年経ってからのことであるはや小林が誕生したころは、まだ開戦から日も浅く、連戦連勝血気に逸る日本軍はと声をあげており、国民もその声にあおられて、国中が好戦ムードで沸きたっていた。
だから、子どもが生まれると、どの親もこぞって、男の子には戦勝を象徴する名、女の子には戦う男子を支える、やさしい名前をつけたものだった。つよし小林もその例外ではなく、と命名された。将来は国のために強い力を発揮してほしいそんな想いを込めたのだろう。
おそらく両親は、その後、小林は、土地や不動産の価値観に大改革をもたらすというかたちで国に貢献することになるのだが、誕生当時は、小林の将来がそうなることは、誰も想像することさえできなかっただろう。
土地を愛するDNAを受け継いで戦争はその後4年も続き、日本は国民も国土も疲弊の一途をたどっていっただが、安曇野あたりには戦争の影響はそれほど響いてこず、加えて、小林の生家はその地で名を知られた大農家でもあったことから、都会に住む人々が直面した困窮体験や空襲の恐怖に小林は平穏な日々を送っていたという。

子供には生命保険金に対する襲われることもなく、のどかな農村暮らしのなかで幼い小林が見ていたのは、朝早くに家を出て、日のあるうちは時間を惜しんで田畑を耕し、施肥や雑草取りなどの農作業にいそしむ父と母の姿だった。農作業のほとんどは人の労力で行われいまのように電動の農機具などなかった時代だから、た。けっして楽な仕事ではなかったはずだが、それでも両親は、土と触れあうことを心から楽しんでいるようだった。幼い小林の目にも、父も母も田畑にいるときがいちばん自然な姿に見えたという。
夕暮れ時には金色に染まった空に北アルプスが美しい稜線を描き出し、その足元に両親の姿が風景の一まぶたいまも、ふと目を閉じると、そんな光景が瞼の裏に甦るこ部のように溶け込んでいるとがあると、小林は懐かしそうに言う。「いちばん印象的だったのは、秋の収穫ですね。家族はもちろん、親戚も一緒になって稲を刈り、作業が終わると、みんなで車座になって飲んだり食べたりしました。
子ども心にも、土地があり、収穫を得られるのっていいなあと、心から思ったものです」なるほど、小林はこうした家に生まれ、土地をなにより大事にするDNAを受け継ぎ、そのうえ、赤ん坊のときから土とともに生きる両親の姿を瞼に焼きつけてきたのだ。