奥様方の本音でしょうね

現預金等

この現実に、なんとかして歯止めをかけなければいけないと、安倍政権も地方の疲弊には並々ならぬ危機感を抱き、2014年9月、地方創生をキーコンセプトにまち·ひと·しごと創生本部安倍政権が取り組む重要課題のひとつとして掲げている。を設け、具体的には2020年までに以下の4つの取り組みに大きな力を注いでいくという。地方における安定した雇用を創出する地方への新しいひとの流れをつくる。

若い世代の結婚·出産·子育ての希望をかなえる。
時代に合った地域をつくり、安心なくらしを守るとともに、地域と地域を連携する。
こうしてみると、Mが取り組んできた市街化調整区域開発は、はからずも政府の地方創生の具体化に大きく貢献していることがわかる。
その事実を実証するように、エム·ケーでは現在、さらに次に紹介する開発計画を、鋭意、進行しているという。
Mは、地方創生の一翼を確実に担い、日本の将来のバランスのとれた発展のための牽引役を懸命にこなそうとしているのであるネクストコア五霞事例1市街化調整区域開発プロジェクトグローバル企業と連携·Mの新たな可能性を開くつくばからさらに西に向かうと、五霞インターチェンジにぶつかる。

圏央道を、このインターチェンジと新4号国道が交わったところで現在、·ケーの新たな開発事業が展開されエムている。それが、総面積37万1000平方メートル、分譲面積約24万9000平方メートルに及ぶ市街化調整区域を、工業、流通の拠点として開発する、商業、五霞インターチェンジネクストコア五霞プロジェクトだ。

ネクストコア久喜周辺地区土地区画整理事業の成功を目のあたりにした行政側から、五霞でもぜひやってくれないかと声をかけられ、実現した案件である2015年1月に五霞インターチェンジ周辺地区土地区画整理組合が設立され、開発プロジェクトはスタートした。

ネクストコア清久と同様に、ここでもMは清水建設を業務代行者としてタッグを組み、地権者122人の合意形成と認可手続きをわずか1年半で終えて地盤改良に着手したというから、驚くべきスピードだ。にしせきやど「当該エリアは、圏央道五霞インターチェンジに隣接し、新4号国道や県道268号酉関宿くりはし栗橋線に接する、交通の要衝で、物流業者にとっては好立地です。加えて、通信販売の需要拡大を背景に、1フロアですべて荷卸しできる大規模倉庫を求める企業から、問い合わせが殺到しました」と、小林は語る。

ネクストコア五霞は、ACの3つの区画に分けられており、2017年5月からは、地盤改良と道路整備が完了したところから順次、建物の工事に着手している。すでに日本GLPがマルチテナント型物流施設の建設に着手しており、清水建設とアサヒロジステイクスの進出も決まっている。
日本GLPは、シンガポールや中国などを基盤に大型物流施設の開発をグローバルに展開している企業である。こうしたグローバル企業との連携作業で、Mの可能性はいちだんと高まったと言えるのではないだろうか。2015年4月2日に行われた安全祈願祭で小林は、次のように話している。
「地元雇用を確保し、地域経済の発展のために貢献したいと、Mの持つあらゆる知恵とノウハウを惜しみなく投入してまいります。さらに、近隣住民との融和を図り、なによりも地域の方々に喜んでいただける開発をめざします」換地処分の完了は2019年6月で、まもなく五霞に活力あふれる広大なビジネス拠点用地が新たに誕生する。

奥様方の本音でしょうねネクストコア海老名事例v市街化調整区域開発プロジェクト工業·流通拠点と住宅地を融合するという新たな挑戦このところ、市街化調整区域開発事業の依頼が立て続けに入り、小林はまさに東奔西走してネクストコア五霞いる。の起工式から5日後の2017年6月19日には、今度は神奈川県海ネクストコア海老名の起工式に臨んでいる。
老名市の工業·流通拠点整備事業ネクストコア海老名は、小田急線·JR線の厚木駅から約1キロメートル、海老名駅から圏央道の海老名インターチェンジから約500メートルという立地に約25キロメートル、·ある、広さ約11万8000平方メートルという広大な工業用地の開発事業である。

近隣では新東名高速道路の一部区間も開通し、流通業、工業などの戦略的交通至便なため、な拠点として多様な企業の要請に応えられると、海老名市も大きな期待を寄せている。

Mは、この一大プロジェクトの土地区画整理組合の業務代行者として、地権者96名の権利調整を行った。

そのうえで、住みたい住み続けたいまち海老名をめざすという海老名市の展望に応え、工業用地を約8万5000平方メートルのほかに、住宅地を約2500平方メートル、さらに道河川など約3万平方メートルの開発や整備も行う、路や公園、調整池、緑地、Mにとっても新たなチャレンジとなる計画だ。

造成工事は2019年3月に完了予定で、誘致企業などを含めたプロジェクトの完成は2021年3月を予定している。「ネクストコア三島1.事例市街化調整区域開発プロジェクトツ谷工業団地」全国企業への第一歩となる関東圏外での初の取り組みこれまでの大規模開発は圏央道を中心に進められてきたが、最近では、Mの手腕を伝え聞いて、関東圏外からのアプローチも増えてきた。
ネクストコア三島三ツ谷工業団地は、国道1号線に面し、富士山と駿河湾を望む土地にあ内陸フロンティア構想の推進地区に指定された、る。静岡県の官民一体となって取り組む大規模工業団地であり、Mにとっては関東圏外での初の事業となる。

東駿河湾環状道路を経由すれば、東名高速道路の沼津インターチェンジや新東名高速道路の長泉沼津インターチェンジまで約12分であり、首都圏、中京圏、関圏から1本でつながるという、願ってもない交通アクセス。

それが相続税の対象なのか否か

家を買ったほうがずっと得だ

相続人に
敷地面積は約21万1000平方メートルで、そのうちの分讓面積は約11万4600平方メートルである。2016年秋から始まった計6区画の造成工事は2018年11月に完成する予定だ。進出企業は、2018年4月から順次、施設の建設に着手していく。
進出企業には静岡県および三島市が資金補助を行うなど、官民一体となった手厚い助成がぁるほか、高台に位置することから事業継続計画BCPの対策としても注目されており、早くも一流企業を含んだ複数の企業からオファーが寄せられている事例市街化調整区域開発プロジェクトネクストコア千葉誉行政側からの積極的な協力を得た官民一体事業市街化調整区域の開発を必要としている自治体は、まだまだ多く、2018年に入ってかちばらもMへのオファーは殺到している。
そんななか、1月28日には「ネクストコア千葉ほんだくまがいとしひとの起工式が行われ、小林は千葉市長·熊谷俊人とともに鍬入れを行った。

誉田」ネクストコア千葉誉田JR外房線誉田駅より徒歩約10分、の開発用地は、千葉外房有料道路の高田インターチェンジから約1分ほどの場所にある、明治大学誉田農場の跡地約26万平方メートルで、そのうちの道路などを除く17万9000平方メートルを、産業用地として開発する。
総事業費は約51億2900万円で、そのうちの道路や下水道などのインフラ整備費を10億円を上限として千葉市が負担するというから、まさに官民一体体制で進められる計画であり、これもMにとっては新たな経験となる。高速道路やJR外房線誉田駅からも近いことから、労働力の確保もしやすく、現在のような人手不足の時代には大きな魅力となるはずだ。
Mでは、雇用を生みやすい食品産業を中心に誘致を進めていきたいと考えており、実際、すでに食品産業を中心に10社以上から照会が寄せられているという。「工場ができれば、そこに雇用が生まれます。

それによって、企業が持つ文化と地元の文化がよいかたちで出合い、たがいに融和を図りながら、その融和のなかでおたがいの文化を取り入れて、それぞれがいいかたちで成長していくこと。それが、いちばん理想的なまちづくりだと思っています」小林は語る。と、

進出を検討している大手食品加工メーカーでは、工場に隣接してレストランを開設する予定だという。

自社の食材を使ったメニューを提供するとともに、このレストランでは、自社商品の販売も行う予定で、地元の人々に新たなコミュニティの場を提案したいとの意気込みを見せている企業の誘致は、雇用を生み出すだけではなく、こうしたことの積み重ねにより進出企業と地元住民の関係が深まり、真の地域コミュニティの活性化へとつながっていくのであるちなみに、ネクストコア千葉誉田をMが引き受けるにあたっては、こんな裏話があるそうだ学校法人の所有地であることから、土地の処分については、文部科学省の了解や、千葉市との協議も必要だった。
使ってしまうから行政には行政の立場とやり方があり、また、産業用地整備支援事業者の決定には審査会があって、それをクリアする必要があった。各方面から選ばれた5名の審査員により行われた。審査は、学識経験者や金融機関など、審査員が、Mの提案内容はもちろん、同社の財務内容までも調べあげた結果、千葉市の審査基準を十分にクリアする評価点を獲得し、Mは千葉市産業用地整備支援事業者として決定された。この認定により、千葉市も10億円を上限に建設負担金を交付することになったわけである。
こうした行政側の熱意に応える意味からも、「地域活性化にともなって心豊かなコ小林はミュニティが誕生するように努力したい」と、いっそう表情を引き締めている。
こうしたプロジェクトと並行して、Mでは、埼玉県狭山市で約8万平方メートルの土地を、茨城県つくばみらい市で約32万平方メートルの土地を開発予定で、さらに神奈川県海プロジェクトなども海老名5老名市では約3万平方メートルの土地で開発を予定しているあり、すでにかなり先の先まで埋まっている。
Mの予定表は、今後のMのプロジェクトのなかには、用地をMが買い取り、賃貸で活用しようという、新たなビジネスモデルを模索しているものもあるという。「検討中の企業からは、『50年リース契約でどうか』という打診がきているんですよ」と、50年を超えるリースとはさすがに驚くが、小林は言う。

不動産事業とは、それほどロングスパンで考える事業なのだ。そして、こうした契約がひとつ、またひとつと増えてくれば、小林の念願でもある「100への道も、にわかに現実味を帯びてくる。年企業」いま、確かに言えることは、この市街化調整区域開発というビジネスを手中にしたことにより、Mは、数ある不動産会社のなかでも独自の存在感を発揮する企業になったということだこの先、その存在感はどこまで大きくなっていくのか。
誰もが大きな期待を持ってMの今後に熱い視線を注いでいる

不動産価値革命の先駆者

建築設計士から不動産業への転身

上地に生命を吹き込むことを天職として天の配剤という言葉がある。

創業者·小林勁の経営理念と人生哲学

毎年の贈与日は変えたほうがいい

天は、人それぞれに、生来、人生で果たすべき役割を付与するという意味だ。長年にわたり、経営者など社会的成功を成し遂げた多くの人に出会ってきた私は、最近、しみじみとこの言葉を噛みしめることが多い。天啓とも言える独自の感度でそれまでにな成功者のほとんどは、時代の変革期に生を受け、かった発想や技術を探りあて、逆に言えば、新しい時代を果敢に切り開いてきた人たちだ。それぞれの時代において、なんらかの重要な社会的役割を担って生まれてきた人だと言えるだろう。
こうした人々、天の配剤によって、歴史は常に、つまりはそれまでとは大きく変わった新しい様相を見せ、織りなされてきたことに、あらためて気づかされる。
こばやしつよし勁も、天の配剤M創業社長の小林のひとりだと私は考えていまさにこうしたる戦後の復興から高度経済成長期を経てバブル経済へ至る過程のなかで、日本の不動産価格は土地の価格が下がることはない一貫して右肩上がりで値上がりを続け、いつしかという土地神話が生まれた。

そして、ほとんどの人は無意識のうちに、それをあたりまえのこととして受け入れていたあたりまえと思われていたことが、バブル経済の崩壊とともに、そのいっきに覆されることになったのだが、そうした変化の渦の真っただ中にありながらも、「土地は、小林は資産として所有するだけのものであってはならない。
活用し、その土地から新たな価値をつくりだしていかなければならない」
常に持ち続けていた。そして、という信念を、どんなに土地価格が高騰しようが、あるいは反対に、大きく下落しようが、目先の変動に翻弄されることなく「土地は活用することで新たな価値を生み出すものだ」という信念を貫いてきた。
それが小林の一貫した生き方であるこの生き方こそが、天の配剤という言葉にぴったり符合することは、不動産の価まさに格が乱高下し、先行き不透明な時代にあっても、Mが成長活力を失わず、事業を拡大発展させ続けていることが証明しているだろう。·ケーがここまで大きく成長してきた理由は、いくつもあげることができる。
たとえばエム困難を恐れず、時代を見通す目の確かさや、かつ誠実そのものの事業姿勢などだだが、Mが成功している最大の理由は、手掛ける案件、つまり、どの土地や不動産に対しても、並々ならぬ愛情を持っていることだと私は確信している。
小林は、土地への深い愛情から、どんな土地に対しても、引き出し、その潜在的な最大価値を鋭く見抜き、それを最大限に発揮させてやりたいと、真摯に思うのだ。では、小林はなぜ、そこまで土地や不動産を深く愛しているのだろうか。小林の半生をたどると、その理由がくっきりと浮かびあがってくる。1941年12月8日未明、日本はアメリカ合衆国ハワイの真珠湾に拠点をおくアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に奇襲をかけた。
宣戦布告なき開戦である小林は、この開戦の日から約1カ月後の1942年1月15日に、長野県安曇野で元気な産声をあげた。
長野県のほぼ中央に位置する、人口10万人規模の、のどかな田園産業都市である。
保険金受取人安曇野は、部には雄大な北アルプス連峰がそびえ立ち、この北アルプスからの雪解け水が豊富な湧水とおそして、夏は暑く、冬は寒い。この、なってこの地を潤す。メリハリのある四季の気候と清この地に豊かな恵みをもたらし、りんごなどの果物や、わさびなどの冽な水は、米をはじめ、

産地としても知られている。その光景は、小林が誕生した七十有余年前から、それほど大きな変化はないようだ。
小林が生まれたころは、戦争は大陸で行われていて、日本国内で暮らす人々にはまだ実感が乏しく、ましてや長野あたりでは、まるで遠い異国の話のように聞こえていたのではないだろうか。
戦争が一般の暮らしに深刻な影を落とすようになるのは、それからIS2年経ってからのことであるはや小林が誕生したころは、まだ開戦から日も浅く、連戦連勝血気に逸る日本軍はと声をあげており、国民もその声にあおられて、国中が好戦ムードで沸きたっていた。
だから、子どもが生まれると、どの親もこぞって、男の子には戦勝を象徴する名、女の子には戦う男子を支える、やさしい名前をつけたものだった。つよし小林もその例外ではなく、と命名された。将来は国のために強い力を発揮してほしいそんな想いを込めたのだろう。
おそらく両親は、その後、小林は、土地や不動産の価値観に大改革をもたらすというかたちで国に貢献することになるのだが、誕生当時は、小林の将来がそうなることは、誰も想像することさえできなかっただろう。
土地を愛するDNAを受け継いで戦争はその後4年も続き、日本は国民も国土も疲弊の一途をたどっていっただが、安曇野あたりには戦争の影響はそれほど響いてこず、加えて、小林の生家はその地で名を知られた大農家でもあったことから、都会に住む人々が直面した困窮体験や空襲の恐怖に小林は平穏な日々を送っていたという。

襲われることもなく、のどかな農村暮らしのなかで幼い小林が見ていたのは、朝早くに家を出て、日のあるうちは時間を惜しんで田畑を耕し、施肥や雑草取りなどの農作業にいそしむ父と母の姿だった。農作業のほとんどは人の労力で行われいまのように電動の農機具などなかった時代だから、た。けっして楽な仕事ではなかったはずだが、それでも両親は、土と触れあうことを心から楽しんでいるようだった。幼い小林の目にも、父も母も田畑にいるときがいちばん自然な姿に見えたという。
夕暮れ時には金色に染まった空に北アルプスが美しい稜線を描き出し、その足元に両親の姿が風景の一まぶたいまも、ふと目を閉じると、そんな光景が瞼の裏に甦るこ部のように溶け込んでいるとがあると、小林は懐かしそうに言う。「いちばん印象的だったのは、秋の収穫ですね。家族はもちろん、親戚も一緒になって稲を刈り、作業が終わると、みんなで車座になって飲んだり食べたりしました。
子ども心にも、土地があり、収穫を得られるのっていいなあと、心から思ったものです」なるほど、小林はこうした家に生まれ、土地をなにより大事にするDNAを受け継ぎ、そのうえ、赤ん坊のときから土とともに生きる両親の姿を瞼に焼きつけてきたのだ。
高齢化社会