倉庫·物流センター

利益を生むものに再投資した場合。

それから30年を経て、いまでは社員数約40名、年商200億円の企業にまで成長した。しかし、この30年は、日本経済にとって波乱続きであった。特に不動産価格は荒れ続け、その波間に消えていった企業も数知れない。おおむね右肩上がりの上昇カーブを描いてMが成長してこられたそうしたなかで、のは、企業経営はまず安定。そして十分な体力を養ってから、身の丈に合ったペースで成長し創業当初から断固として守り抜いてきたからにほかならない。
ていくという信念を、不動産価格は天井知らずで上がり続け、それでも仕込めば仕込むだけどんどん売れていったというバブル期にあっても、「こんなことがいっまでも続くはずがない」と考え、小林は長期的かつ安定的に収益を確保できるビジネスモデルを模索していた。たどりついたのがヘッドリース事業である。その結果、ヘッドリース事業は、現在もMの収益の主柱として、経営基盤を安定的に支えている。

なお、ヘッドリース事業については第3章で詳述するそして、このヘッドリース事業から発展的に生まれたのが、市街化調整区域開発などの大型開発事業である市街化調整区域開発は、いまではM最大の事業にまで成長し、年商を200億円に押し上げた立役者とも言える存在になっている市街化調整区域とはなにかところで、市街化調整区域の開発とは、いったいどんな事業なのか。

それを説明するには、まず、日本の土地事情から説かねばなるまい土地にはいくつかの規定があり、それぞれ使途に関する決まりがあるのだが、実はそのなかに、自分の土地でありながら自由に使うことができない土地についての規定があるおよそ4分の1が都市計画区域とされ、この土地では都市計画が実日本全国の土地は、その利用や活用について別段の規制はない。施されると決められている。それ以外の土地は、市街化調整区域都市計画区域は、市街化区域らに分けられる。
このうちと市街化区域は、工業用専用地域に指定されている場合を除き、住宅を建てることができる一方、市街化調整区域とは市街化を抑制する地域のことであり、宅地造成をすることはできない。認められているのは、農家の住宅と開発許可を受けた既存住宅、それに公的な施設の農林水産業に関する施設の整備などとされている。

それ以外の建設と、土地や道路の整備、たとえば既存の建物以外の建物を建てたり、開発を行う場合は、都道府県知事の開発許可を受けなければならないと規定されているのだそのため、代々受け継いできた土地が市街化調整区域に指定されたオーナーの悩みは深

刻だ。
自分が所有する土地でありながら、自由に使うことができないのだから、これほど理不尽な話はないオーナーだけでなく、地方自治体にとっても、市街化調整区域に関する悩みは深かっ市街化調整区域は、雑草が生い茂るだけの状態になっている。
たいていは広い空き地で、不法投棄されたごみが山積しているケースも少なくなく、そこから税収を得ることなど考えも及ばないというのが本音だろう。市街化調整区域を、なんとかして経済効率のよい土地に転換できないかというのがこの近年の緊急課題として浮上してきている。

新宿三井ビルディングごみの山や荒れ放題になっている土地を、ショピングMは、その開発を引き受け、モールや工業団地、倉庫、物流基地などに生まれ変わらせてきたのである市街化調整区域開発のオンリーワン企業MMが最初に市街化調整区域の開発を手掛けたのは、1998年のことだっ埼玉物流センターをつくるにあたり、埼玉県日高市に大手物流会社のその開発許可の申請業務から設計、施工までを引き受けたのである市街化調整区域Mではそれまでも、小·中規模のの開発を手掛けたことはあったが、複数の地権者が絡むこの物流センターの案件は、当時のMにとっては、かな荷の重い大規模案件だった。

だが小林は、やるそれをと決めた実はこのあとも、Mは同じような場面に何度も遭遇するのだが、いつも小林はけっして退かなかった。一見、手に負えないと思えるような案件でも、敢えてチャレンジする。挑戦なくして企業が飛躍することはないという経営哲学を、小林は大事にしているからだ。だが、市街化調整区域実際に取り組んでみると、の開発など、どの不動産会社も手を出そそもそも一民間企業の手に負えるような事業ではないと考えるのが普通だというとしないし、うことが、骨身に沁みてわかってきた。
都道府県および市町村などの自治体からの認可の取得から始まるのだが開発の第一歩は、これがいつになったら動くのかが皆目わからない。何年もかけて交渉し、その間に法改正や新しい条例の施行があれば、事業計画を見直して、粘り強く交渉を続けても、その都度、けったいざんめいどうねずみいっぴききょく大山鳴動して鼠一匹どころか、一匹すら出てこないということも珍しくそのないのだ。
しかも、苦労して認可が取れたとしても、次にはさらなる難題である、地権者との交渉が待っている。
塩漬けになっている、あるいは死蔵化している不動産を活用できるチャンスなのだから、地不動産を所有していること権者も歓迎してくれるのではと考えるのは甘い。いまだにに価値を見いだしている土地オーナーは少なくないし、先祖から受け継いだ土地を自分の代で手放すことはできないという、ある種の使命感を持つ人も多くいる。

土地の活用について家族のなかで意見の食い違いがあったり、土地の相続を巡って不仲となっている家族や親族もあったりするこのように、さまざまな事情を抱える地権者の数が数十人、ときには100人近く存在する場合もあり、その一人ひとりに事業計画を伝え、土地活用を承諾してもらわなければならないこの作業だけでも、気が遠くなるほど大変なのだ地権者の承諾が得られたら、こんどは開発計画を具体的なビジネスに落とし込み、かたちにしていく作業が待ちかまえている。
父の家屋の時価

承認申請書

土地の無償返還に関する届出書
何社もの誘致企業と交渉し、そこで展開するビジネス計画

施工管理もする。これだけの難事業を、を提案し、さらには設計、ビジネスとしても成立するかたちで具現化していかねばならない。実は、この物流センターのケースでは、Mは少々痛い目にあっている。詳細は第3章を参照していただきたいが、小林は「失敗は、次の成功への、いちばん確かな足掛かりになととらえ、実際に、それらの経験を企業内知見として蓄積していった。

その結果、現在でる」は、市街化調整区域の開発に関しては各自治体もそれならMと名指しで相談を持ちかけてくるほどの存在感を持つまでになっている。

言うまでもないことだが、自治体が民間の企業名を明らかに口にすることは、通常ではありえないだが、市街化調整区域を開発したいならば、Mの力を借りなければ実現し自治体自身がよく知っているのである。ないことを、Mが行った市街化調整区域開発事例ここで少し、Mが手掛けてきた市街化調整区域開発の例を紹介しておこう。イオンモールつくば事例1市街化調整区域開発プロジェクト感慨無量のひと言。不動産業の冥利を感じさせてくれたプロジェクト2000年のある日、東京都日野市にあるM本社を7人の紳士が訪れた。
彼らは茨城県つくば市の、つくば牛久インターチェンジの近くに約22万平方メートルという広大な土地を所有する99人の地権者の代表で、その土地を、できれば一括活用する道はないかと、エム·ケーに相談にやってきたのだ。
東京都心から約50キロメートルの距離にあるつくば市は、かつては農村と雑木林が広がって1960年代から筑波研究学園都市として開発が進み、いた地域だった1987年に筑波郡谷田部町を中心に3町1村が合併して、つくば市が誕生した。これに合わせて道路の開発も進み、首都圏中央連絡自動車道以下,圏央道が開通した。
倉庫·物流センター圏央道は都心から半径およそ40キロメートル60キロメートルの位置に計画され、横浜、厚木、八王子、東京湾アクアライン、川越、つくば、成田、木更津などの都市を連絡し、東京外郭環状道路などと一体となって広域的な幹線道路網を形成する首都圏3環状道路の、いちばん外側に位置する環状道路である。東北自動車道ともつながっており、東名高速道路、中央自動車道、物流の効率促進を実現した、非常に価値の高い交通インフラだと言えよう。つくば市との接点あたりでは圏央道と国道6号線が交わり、つくば牛久インターチェンジも各方面からつくば市へのアクセスはいちだんと便利になった。つくられ、そのつくば市から、7人の地権者代表たちが日野市のMまではるばる足を運んできたのはなぜか。
当時のMは、社員数は20人たらずで、売上高も43億円程度の、はっきり言って多摩地区にある-中小企業にすぎなかった。
しかし、その一方でMは、1998年に埼玉県日高市に大手物流会社の埼玉物流市街化調整区域を完成させたことを皮切りに、での小規模開発をいくつか手掛けセンターそれぞれの土地に新たな命を吹き込むプロジェクトを成功させていて、知る人ぞ知る存在になっていたのである活用できない土地を持っている地権者たちは必死だった。

そこで、市街化調整区域の開発実績が複数あるMなら、きっと自分たちの土地の開発も成功させてくれるに違いない

はるばる足を運んだのだ。との期待を持って、なんとかして土地オーナーさんの力になりたいすみみやじひろゆき現状は専務取締役(当時)の宮地宏之と専務取締役(当時)の小鮒康美を現地に派遣したところ、見るも無残なものだった。圏央道と国道のあいだの土地は、後継者不足から耕作放棄地も多くそして、その陰には、使えなくなった電気製見渡すかぎり人の背より高い雑草が茂っていた。

不法投棄された大量のごみが埋もれていた品や自転車など、こうした宮地の報告を聞いているうちに、小林には怒りがこみあげてきた「地権者のなかには、つくば牛久インターチェンジのために土地を提供したオーナーさんが何地域の発展のために先祖からの土地を提供したのに、手元に残った土地人もいらしたのです。あまりに気の毒ではないですか。
なんとかして力になりたいとはごみの山になっているでは、思いました」だがこの思いに背中を押されるかたちで、小林はこの案件を引き受けることを決意した。その後に続く苦労は筆舌に尽くせぬものだったと小林は回想する。
当時はバブル経済崩壊の影響が依然として尾を引いており、多くのゼネコンは壊滅的な打撃を受けて力を失い、金融機関もすっかり弱気になっていた農業振興地域であり、転用するには市町村長の許可を得る必しかも、対象となる土地は農業を推進することが必要だと定められた土地であり、要があった。
農業振興地域農とは、のなかでもかなりハードルが高い。
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個人情報保護法

北野ビル

だが、本当の困難は、調べてみると、土地を所有しているという認識のないまま登記簿謄本上の所有者が亡くなり30人近い相続漏れとなっている土地があり、土地の権利を確定させるために三代前まで遡り、そのため、実際の地権者は、相続人に同意をもらわなければならないケースもあった。当初の99人から128人にまでふくれあがり、その全員の承諾を得るために、Mの社員は日々奔走したつくば市の地元では稲岡土地利用研究会が発足し、その一方で、Mとともに、開発この会を通じてMは、つくば市や茨区域の土地利用についての勉強会が開催された。地権者への周知を徹底した。
城県の行政担当者と意見交換を重ねつつ、稲岡土地利用研究会という組織がなければ、つくば市の開発事業を実現させることはできな力1·六当時を振り返って語る。と小林は、こうした地道な活動を続けた末、2010年5月にようやく地権者全員の承諾を得ることがすでに10年近いできた。

7人の地権者代表が日野市のM本社を初めて訪れた日から、月日が流れていたその間に法改正が相次ぎ、ようやく設計、施工に入っても、その都度、準備した膨大な書類ゼロから書類をつくりなおし、がむだになった。行政の許認可も取りなおし、地そしてまた、なかったという。

200店舗が集まるワンランク上の商業施設こうして2013年3月15日にグランドオープンしたイオンモールつくばは、敷地面積約20万平方メートル、延床面積約10万5000平方メートル、駐車台数約4000台、テナンイオンつくば店を核に約200店の専門店が軒を並べるという壮大さの、トは当時は全国オープン初日には約5万人の来客が押しでも1、2の規模を誇る大型ショッピングモールで、寄せたもとの荒れ地から、しだいに建物が完成していく工程を目のあたりにしていた地域住民たちは、この日がくるのをずっと待ちこがれていたことだろう。
イオンモールつくば「人と環境に配慮したショッピングモール」はの実現に取り組んでおり、ソーラーパネルを設置して太陽光発電を行い、照明にはLEDを採用するなどしてCOの削減を推進するというアイデアも盛り込まれていた。また、モールの周辺には地域の樹木を中心に4万本を植樹し、緑に満ちた環境を再生するブログラムも取り入れている。

地域住民の多くがそれに参加すモールの開業前に植樹祭を行い、るしくみをつくるなど、地域の人々とともにまちづくりを進めるという大きな目的もMは実現してみせたこのときの経験を踏まえて、ともにまちづくりをMではこれ以降、を企業スロともにとは言うまでもなく、地域とともにガンとして掲げるようになっている。

倉庫·物流センターという地域住民と一体となって、誰よりも地域住民が待望してやまない開発を進め、意味だ。地域にそれこそが、不動産会社が本来担うべき最大の事業だと、貢献していくこと。小林は確信しているからだ。ふるさとが再生し、家族の絆も甦ったイオンモールつくばグランドオープンの日の、茨城県知事·橋本昌(当時)をはじめ100人余りの地権者の感慨は、言葉にならないくらいのものだった。
以前はごみの山だった土地に純白のショッピングモールが建ち、数えきれないほどの人々がそこに吸い込まれ、こぼれるような笑顔で出てくる光景は、こうして現実に目のあたりにしていても信じられなかった。イオンモールつくばの完成により、地域にはおよそ2000人の雇用が生まれ、つくば市には少なからぬ税収ももたらされた。
イオンモールとの契約は30年で、地権者は地代や家賃収入などの安定的な収入を、今後30年間にわたり、得られることになった。まさに、どこをとってもいいことずくめの開発だった。
経済面でのメリットだけでなく、地域に雇用が生まれたことから、つくばを出て都心へ行った息子や娘が家族を連れて戻り、2世代、3世代の暮らしを取り戻せたという人もいた。

本当に実現するとは誰も信じることができなかった難事業を、こんなに立派なかたちで成し遂げてくれたと、「Mさんには心から感謝して行政も地権者も地域住民も異口同音にと言いながら深く頭を下げる。います」私自身も感慨無量で、心の底から不動産屋冥利に尽きると感激を噛みしめていました小林も言う。と、小林自身も、不動産開発の真の意味や醍醐味を知った瞬間だったと言えるのかもしれない。

がオープンする201イオンモールつくば地権者たちと初めて出会った2000年から、長期にわたる資金繰りや3年までの13年間の道のりは、けっして平坦なものではなかった。
何度も暗礁に乗りあげた計画の練り直しなど、さまざまな困難がMには降りかかった。完成から5年が経苦労はむだではなかった。
この案件で出会った地権者たちとは、しかし、過した現在も交流が続いているという。いまの時点では定イオンモールとの契約は30年間。
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