住宅市場と公共政策

妻が持家派夫が賃貸派

これは結構、大事なことをいっているのだ確固たる信念が必要である。揺るぎないベースをつくるには、の示唆することは、M&Kが自分の色を持っている会社ということなのだ。「われわれの商売は、あらゆる情報を集め、ネットワークを駆使し、適切な土地を探し、さま売り上げを上げるための設備は、ざまな角度から総合的に判断します。つまり、営業担当者の折々にハッパをかけた頭の中であり、そこに供給される電力は、小林のエネルギーでしょう。
り、軌道修正したり、常に一定のレベルをキープして、ブレない。これがM&Kの企業カラだと思います」これがの小林像だ。社員の頭の中の工場が秩序正しく動くのは先見の明に秀でる、小林の的確な方向指示、先見性だという。
ふかんリーダーシップの点から一国のトップを俯瞰するなら、戦後六十七年、主要先進国の首相

就任数は、ドイツ、フランスが各八人、アメリカ1人、イギリス111人、それに対し日本は、現政権で三四人を数える。

利益を生むものに再投資した場合。これは、悪い冗談としか思えない。ついでに述べておけば、昭和天皇の即位の大礼があった昭和11年から大東亜戦争(太平洋戦がはじまる昭和十六年までの十三年間で、一四の異なる内閣が成立、瓦解している。争)一年今日と同じようだ。に1回のペースは、時代や環境変化に惑わされる。これは個人も組織も同じなのだ。自分の色を持たないと、まず、ブレないことが大事で、確固たる信念を持つことだ。周囲に影響されない、企業のカラーも同じである。
全員が頭の中に持つ工場は、それは、つまり、自分の特色で決められるべきであり、その頭脳の集積が企業の存在ということなのだ。

創業者·小林勁の経営理念と人生哲学

ミサワホームでの経験を生かすあづみの長野県安曇野市の生まれ。
略歴には松本市となっているがM&Kの創業者である小林勁は、小林の生家があったエこれはかつて安曇野の境界が松本市の外れまで含んでいたためであり、いまは合併して安曇野市となっている。
リアは、地元では大地主に入る家柄だから、比較的裕福であった。しかし、戦後両親は農業を営み、GHQの指導による農地改革でだいぶ没収された。努力していたのが記憶にあるという。これが現在の親は代々の土地を守るのに精いっぱい”土着”土地開発事業で、地権者の土地に対する愛着を理解するもとになっている。を生身で知っているのだ。
人は死ぬまで働くのが当然朝早くから日の暮れるまで働く親の姿を見て育ったこともあり、なりわい老後の生活も充実している生業が、小林の理想なのだ。

マイコート稲城

という意識が強い。こんな話をしている「考え方は人それぞれだから、サラリーマンで一生を送ってもいいでしょうけど、私の場合何も仕事がないというのは、ちょっとつまらないと思っていました。定年のない定年退職後、ずっと仕事をしていられるのだから、サラリーマン時代から、生活、つまり経営者なら、独立の意識は強かったですね」生業感覚なのだ。
スタッフの話を聞いていても、サラリーマン化しておらM&Kの経営は、経営者感覚で思考しているのがわかる。ず、まだまだのようで、しかし、小林にいわせれば、社員に対しては厳しいようだ常々、「いつも、プラスアルファの発想を持てといっています。そうした思考法を社員に植え恵まれた環境で育った人ほど、つけているのですが、得てして、飢餓感に乏しいですね。

トライ精神、気迫、行動力に欠けるのです」現預金等出世の階段をのぼった人も、定年過ぎればただの人になってし世の中でエリートといわれ、まう。そんな人生はつまらない。倒れるまでやる。死ぬまでは人間、生きているのだから。若いうち最後までチャレンジし、そう考えていたという。から小林は、小川建設に入社する。小林は大阪工業大学工学部建築学科を卒業すると、一流の技術屋にななんでもこなせる技術屋になるのが夢だった。
り、将来は独立して、小川建設には八年間在籍したやがて同郷の出身であるミサワホーム会長·三澤二郎の目にとまり、その三女と結婚するそれが縁で多摩中央ミサワホームに入社、建設部、設計部の部長を歴任、開発事業部長を経て年十一月、·ケー株式会社を設立し、一九八八エム代表取締役となる昭和六十三まったく新しい職多摩中央ミサワホームでは、ゼネコン時代に培った技術は一切通用せず、場環境にとまどったものだ。
建設担当者が代金の回収を「建設部に配属されたのですが、驚いたことにミサワホームでは、ゼネコンにいたら、まずそんなことするのです。これにはカルチャーショックを受けました。代金回収で苦労したことが、現在につながるわけですから、ですが、いい経験をはしません。

させてもらえました」資金·代金にさわったこともない。

地方創生

小川建設時代、小林はカネ工事が完成して、顧客から代金を回収するまで建設管理の仕ところが、ミサワホームでは、こんな当然のことが、ゼネコン時代は事だった。工事が完成しないと資金の回収はできない。

理解できていなかった。そのときに覚えたのは、入金するためには「資金のコントロールで、要は管理業務です。ゼネコソにいたころは、れだけの努力をしないとお金はもらえないのだということです。ただお金の仕組みなど、与えられた業務をやっていればよかったのです。真剣に考えたこともなかったのです」積算をして、施工して、利益を出し、売り上げを回収する。

そんなあたり前の原価があり、ことでも、売り上げの回収で実際に苦労しなければわからないのである流れでできている。それを実際の代金回収仕事というのはなんでも、こうした資金の循環、の仕事で具体的に理解できたのである部長クラスの上長にはなれただろうが、そのため小林は、あのまま小川建設にいたら、技術組織の歯車、一つの駒で組織に埋もれる。屋の一人で終わったのではないかと語る。
ミサワホーム時代の代金回会社全体を見渡す大きな視点と視座を得たのは、それが一転、組織の仕組み、考え方、すべてが違った。収にあった。
しかし、小林の価値組成とのつながり、少しずつ理解度が深まっていった。組織のあり方、観が変わったのは、それだけではなかった。義父·三澤二郎から学んだこと料金全体が俯瞰できる仕組みだった。床面積から各項目が一式、ミサワホームの積算は、建これには小林も驚い誰にも簡単に積算が可能なシステムである。築のような複雑な業界でも、なぜかと考えたのであるた。そして、施工が間に合わないくらい.バブル経済時代である。

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誰にでもできる手法を確立数値の組み立てを簡略化し、そのため住宅メーカーは苦労して、小林にとっては、これも勉強になった一つだ。したのだ。三澤二郎と接点ができた。だが、この話は、ど同じ建設業界ということで、同郷のよしみ、うも背景があった様子で、変則的な見合いの色合いがある。郷里とのパイプも太くなる。同郷から娘婿を迎えておけば、後に義生家の家筋も悪くない、そう考えたようだ。
小林が働いていた現場に顔を出したのが父になる三澤二郎は、あるとき、発端であるひょっこり義父が顔を出したのです。